感動の感
咸(カン)が音を表している。意味は動かすという意味の撼が語源。 ということから感は心の外に対する心の動きまたは物事に起因して心が動くこと。
物事が深く感じて心が動くことが感動。
外からの刺激を受け入れるのが感受。
目・耳・鼻・舌・皮膚などの五感に受けた刺激を感じを感覚という。この外界からの刺激を脳に伝える目・耳・鼻・舌・ 皮膚の感覚器官を感官という。
仏教では、この5つの感官に心つまり意を加えて6つの感官にして六根で人間の感官を説明している。(仏教では皮膚を身と表現する) この六根それぞれの対象としているものが、目ー色、耳ー声、鼻ー香、舌ー味、皮膚ー触、意ー法であり。これを六境という。 意に対する法というのは法律の法という意味ではなくて、仏教用語では存在・現象のこと。
六根の感官(目・耳・鼻・舌・身・意)が六境(色・声・香・味・触・法)に接触すると識が生じるとしている。 識とは心の働きのことで生命活動の主体である。
また六境が心の汚れ即ち煩悩を引き起こす元だとして六塵ともいわれる。六境への執着が煩悩になるということである。 この執着を離れるたときに六根が清浄になることを六根清浄という。これが仏教で言う悟りのことである。
あらゆる生命活動において、外界からの刺激に対する執着を離れたときに悟りの状態になり、 人間として最高の生を感じる生き方ができるようになるのである。心が欲望にとらわれることが無くなり世界を見る目が変わり、 まるで違う世界が開けてくるというのである。
仏教ではこの悟りの状態の人を仏といい、けっして死んだ人が仏になるというわけではありません。 本来のお釈迦様の仏教は人の生き方を説いた哲学であり、死んだ後のことを主体にしているわけではないのです。 今の人生の1日1日をどのように考えて、行動するのかが大事なことなのです。今日一日を大切に。